Trees_of_Spring

2015/9~アメリカの大学院にて工学系の研究をしています。2016/7~シリコンバレー近辺のハードウェアスタートアップで製品の開発をしています。あんまり研究の話はなく個人的なことばかり書こうかと。こんなんですがトビタテ!留学JAPANという文科省のプログラムに採択されてありがたくアメリカで生活を送れています。何かあればどうぞ→Mail: tut.it.mus1c[あっと]じーめーるどっとこむ

働きます。

ウッス、ご無沙汰ッス、あ僕、ット無事に仕事が決まりました(コミュ障気味に

来年からは神奈川の日系のメーカーの研究所いきます。研究所から歩いて数分の敷地に住むんだけどもラボ畜してこんなコミュ障研究者だけにはなりたくない(´;ω;`)

 

ちょっとだけ具体的には、院で専門だったフレキシブルエレクトロニクス→めちゃくちゃ薄い、曲げたり、伸ばしたりできる回路ができる技術を使って、ウェアラブルデバイスを中心に5, 10年先の新しい体験ができるデバイスを作ってやろうって感じの仕事です。

メーカーだけど具体的な物を作るわけじゃなく、スマホだとかアップルウォッチとか、今当たり前になっているハードウェアの10年先の形を模索するような感じです。

 

研究職だと言うと驚く人も居ますが、僕これでも、小学生の頃にはMYハンダゴテをもってたし、中学校はPSPをゴニョゴニョして一番の友達はパンドラ・バッテリー君でした。大学に入ってからはちょっとだけ外交的になりましたが、去年米国で研究所&ハードウェアスタートアップのダブルパンチ喰らってコーヒーを愛する理系人間として一周回って戻ってきたわけっす。 

 

てなわけで就活シーズンは面白いハードウェアやってる所じゃないと感じられない不感症を患い、一応ES出すけど落ちる、というかESすら書く気が起こらないパターンが多すぎでした。結果一番シーズン的に早かった第一オンシャだけ面接が進んあっという間に就活が終わりました。

 

蓋をあけると僕が面接まで進んだ会社は全部で2社だけでした。幸いもう一社もご縁あったものの、そっちはオジーオズボーンもびっくりの Black sabbath & 高給取り、って感じのところでした。これぞロックンロールなワークスタイルでした。

個人的にはそれでも面白いハードやってると思えたから受けたんですが、社員も週末の楽しさと給与に対するコスパばっかり語るし、最終で人事に「金を持つことは大事なんやで!(関西人でほんとにこんな感じ)」ってめっちゃ諭してくる感じが結構萎えました。

そんな当たり前の事はエリート家系の御曹司として生また僕には、言われないでも金が全てだって分かってますし、やっぱり変に週末豪族するよりかは、楽しいことを週5or6で仕事としてやって、あとはお金を使わないでも楽しめるヤロって思っちゃいました。僕、御曹司なんですが大学からの奨学金6年間分を返済しなきゃいけなくて、そこだけは金銭的に魅力を感じてはいましたが。

 

結局仕事のワクワク度数と将来性を最大化する形で仕事を選びました。安定感とかその他は妥協です。10年くらい働いてその後は日本なり海外なり技術者として活路を見いだせればいいなぁって考えてます。 

 

今日くらいで泣く子も黙る某研究所への留学を終えて1年経ちました。光陰矢の如しで研究やらインターンやら就活やら何やらであっという間でした。誰にも聞かれてませんが、遂に大学院中で10回目の引っ越しを達成しました!自分より引っ越した回数多い奴デテコイヤ。

 

ちょっと前まで都内の激安シェアハウスに住んでましたが、昨年末お台場の意識高い感じの国際寮にRAとして移りました。実物大ガンダムが警備員として雇用されて睨みを効かせている良い建物で、So far, 家賃も10拠点中最安、環境としてもトップランクに入る感じです。

何せご近所さんにジャンキーは居ないし、自分だけの風呂トイレ有るのが最高です。あと、お台場のとても良い東京の夜景が見えて、更に友達のデートに遭遇することがあるのは他にないお台場に住む特典だと言えるでしょう。

今のところ次の引っ越しまでは8ヶ月くらいあって、僕にしてはとても安定感あります。いざ学生最期を楽しもうといった所ですが、夏に昔から興味を持っていたSTeLAとかいうワークショップに参加するためにオランダに行く関係でとても金欠です。その頃ヨーロッパのあたりに居る人、会えればいいな。飲みに行くのも良いですが、良かったら是非宅飲みに来て下さいな(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)きれいなお台場案内しますんで。

 

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近所で一枚@お台場海浜公園

 

日本人留学生が米国でインターンシップを行う最も簡単な方法

僕がアメリカで経験したハードウェアスタートアップでのビザについての纏めです。諸都合上、記事を以下のサイトに寄稿しました。続きは以下のリンクから。

 

日本人留学生が米国でインターンシップを行う最も簡単な方法 | トビタテジャーナル

 

Goodbye Seattle.

今朝、僕は30kg弱のスーツケース2個とバックパックを2つ、前と後ろに背負って、ぶっ壊れそうな肩に力を入れて荷物を運び古びた列車に乗った。その列車はシアトルからアメリカ西海岸を縦断し南はロサンゼルスまでを36時間かけて走る古い鉄道である。値段で言えば飛行機と比べても差して安くない。けれども目的地のサンフランシスコまで約23時間、とろとろと走る車内で去る地の思い出に耽り、新天地での新しい生活を想像するには丁度良い時間にも思えた。
 
実際に乗ってみると結構悪く無い。日本の鉄道と比べると比較にならないほどでかい車内は窓も大きく景色も広いだけでなく、レストランまでも備わっている。シートも足を伸ばしても前に届かないくらいはあっていい感じだ。丁度深夜1時、殆どの乗客が寝静った頃に展望デッキに出てきてみる。なんとも良い静かさだ。暇だからシアトルで考えてたことをまとめてみる。
 
延々と続くような感覚があった留学生活も気が付けば昨日で終わってしまった。
今振り返ってみると、絵に描くような順風満帆な生活ではなく大分研究だとか勉強に時間を取られてしまった。けれども、個人的にはとても濃い9か月だった。
 
原点に戻って留学の志望動機書を見てみると
研究を頑張りたい、専門的な仕事をこなせるように、細かなコミュニケーションが取れるように語学力を身に着ける、アメリカで働くことを考えてみる、、、等々。
 
中々に偉そうなことを書いていた。もちろん嘘を言っていた訳じゃないけども、もっと根底にあったのは海外で暮らしてそこでの生活を考えてみたいって原動力だったきがする。そのうえでの形がそれらの目的だった。それにぼくみたいな貧乏は合理的な理由を言葉にして奨学金を投資してもらう必要もあった。
自分で言うのも何だけれども、こうやって箇条書きで挙げた項目は大方大学の講義なら単位は来る程度にこなせた自負がある。
よしよし、それなりに研究もして英語もそこそこ喋れるようになった。
 
…はて、それで良いものか。何か腑に落ちない。こう考えてしまう。
 
そりゃあ1年もかければ何かしら纏まったことができるし、じゃあ自分が払った代償と得られたものって本当に見合っていたのか。と。
 
具体的には時間と金だ。
 
まずは時間。僕はお陰で1年ほど学生を長くやることになってしまった。留学せずにそのまま大学院に通っていれば今頃あわよくばどこかの会社に入ることになっていて、来年度からは遂に社会人になっていただろう。先日大学の同期が内定したって話をしばしば聞いて、みんなすげぇなと思うと同時に本当に1年遅れるんだと実感が湧いた。
 
そしてお金。奨学金や親から、はたまたアルバイトで稼いだお金。。。出元は何にせよ生きていくには金がかかる。殊に海外では。おそらく僕はアメリカで毎月15万円程度の出費をする生活を9ヶ月ほど続けたし、航空券の代金も考えると軽く100万円以上の出費をしているという事実がある。皮算用ではあるけども、在学延長しなければ大学の学費も浮いて社会人としての収入も1年分得られていたことにもなる。時は金なりって奴だ。
 
さて、これだけ大枚を叩いてアメリカに来る意味があったのか考えてみたい。
 
残念ながら、必ずしも全てにその必要があったかというとそうでも無い気がする。
 
例えばの話だけれども、研究に精を出すとか、語学の勉強をするというのは形は違えど日本でやることもできた。むしろ研究単体で言えば、語学が壁になって意思疎通が難しい場面があったことを考えると、日本で母国語で研究ができる環境でやった方が効率は全然良かったとも言える。
 
その一方でアメリカに来たからこそ得られたものもある。何と言っても自分の母国語が全く通じない環境だとか、自分が外国人として仕事を進めることは日本では得難い。またボスキャリあたりを糸口に、アメリカでの仕事を知って、こっちで働くというオプションを身を以て知れたことも来たからこそだと思う。
 
じゃあもっとアメリカに来る前に研究もしっかりやって勉強もして、語学も身に着けて来れば、費用対効果をあげることができたじゃないか。なんてそんなものは捕らぬ狸の皮算用であって、いくらでも考えることができるし終わったことに対してそれが実現することはない。全部セットでこれが僕の得ることができた最大の費用対効果という訳だ。
 
けれど、ここまでコストだとかそれに対する成果について言っておいてあれだが、実感としてこれらの目に見えるものは留学中に得られたことのなかでの大部分だったかというとそうでもない。
 
個人的な大きな収穫は、自由で外からのノイズが限りなく少ない環境に身を置けたことだ。
 
なんとなく工学系の勉強はしたいと思って入った大学だったけれど、特に目立ってやりたいこともなく何も考えていなかった。そんな自分でさえちゃんと大学の必修科目をそこそこの成績で取って大学院に入って、周りと同じように生活していればなんとなく人生が進んでいる感じがした。そんな僕が1年休学して大学院に留学した当初特に辛かったことは足並みをそろえる対象がいなかったことだ。もともと東工大からワシントン大学への留学は枠が1人しかおらず大学からの同期は居なかったし、留学先の学科全体で見ても僕のような留学生の立場は僕だけだった。それゆえに、僕にはこのくらい単位を取るべきとか、このくらい勉強するべき、または周りはこの位やっているからといういつもの参照するものが全くなかった。これがひどく疲れた。自由って良い表現として使われるけど案外僕(ら)は自由を与えられると困るほどにはレールの上を走っているのだと知った。一度それを外れると時に早すぎたり、時に遅すぎたりとそれをコントロールすることは意外にも難しかった。こんなもんだろうと片づけた宿題の出来が非常に悪かったこともあれば、必要だとおもった実験を徹夜でこなして体調を崩したりだとか、トライアンドエラーを通して自由のなかでうまく自分をコントロールしていった。今では少しは自分で考えて自分の行動を決められるようになった気がする。
 
また今まで生きていて味わうことのなかった様な苦い経験なんかもあって、それに対してたまに休んだりリラックスする時間を設けて自分の中で対処するような習慣もつけられたのは個人的に良いことだった。僕は嵌り込むと休憩するのが苦手なタイプだ。それでも日本では家族とか友達が構ってくれたから自分で限界に達することが無かったからやってこれたのだと思う。
 
そして、日本から遠く離れたところで生活することで良くも悪くもあまり日本のニュースや本来結構な悩みになり得た就活の話題から逸れることができた。僕は典型的な意思が弱い人間なので、人の価値観を鵜呑みにするような節があった。そんなノイズともいえる周りからの情報が消されたお陰でゆっくり自分が今までやってきたことだとかこれから数十年先まで何がしたいのかよく考えることができたし、物事に対して自分で考える時間がよく取れたと思っている。考える材料としてアメリカで色々な人やその価値観に触れられたことはいい機会だった。
所謂企業が求めるとか言われているグローバルだとか多様性だとかいう語彙はこういう考え方を頭の隅に持っていることを言うのだろうか。よくわからないけども、語感だけだととても安く聞こえるし、外向けにそんな言葉で自分の感じたことを成果として安売りしたくないと思う。
 
結局はっきりと目に見える成果なんてものは小さなもので、大きなものは考え方とかいう曖昧なものだった。もちろん留学をサポートしてもらった人たちに形として成果を求められれば研究の話だとか、語学の能力だとか、どうにか言葉にしうるけども、生の体験は到底そんな陳腐な語彙では表せないし自分に言い聞かせる為に言葉にする必要はない位には自分でよく理解できている。(と思っている)
 
結局払った対価に対して得られたものが有効だったかどうかというと、今でも良くわからないのが正直なところだ。もちろん定量的に見れる部分ではそれなりにやったつもりだ。けれども評価しにくい部分で明らかに外に出なければわからなったことはあるし、それは割と大きな気づきだったと思う。考え方に対して値段は付けられないという何とも曖昧な逃げであるけども、それらがきっと後の役に立つことを信じてこの9か月に意義があったとしておこう。
 
何が言いたいのか良くわからなくなってしまったけども、こんな留学だった。研究はブログに書いても詰まらないし、折角なので論文に纏めてどこかのジャーナルに投稿しようと思っているので割愛する。
 
さて、夜も明けて列車も暫くしたら到着しそうだ。ここからもう2か月、カリフォルニアに移って新しい生活を始めることにしよう。
 
June 20th

研究もあと1ヶ月、そろそろ日本に帰りま、、、、、、、、、、、、せん。

ワシントン大学での9ヶ月に及ぶ研究も遂に6月の頭に終了である。

 

当初は遠い先に霞んでいた留学の終わりがすぐそこに感じられる位には近づいていて、最近は研究を進めること、そしてどうやってそれらを終わらせるのかで頭を悩ませていた。

 

こっちで自分が立てたテーマは主に2つあって、ひとつは有機ELディスプレイなんかに使われる材料を開発すること、もう一つは今流行り(?)のグラフェンという材料を使って既存の金が使われている半導体部品の金の部分を置き換えるといったものである。

材料の開発は大してインパクトは無いものの何かしらの新しい発見はあったりし、グラフェンの方はあとは蒸着機という加工装置の調子が悪いことを解決してどうにかものにしたい。といった感じた。

 

まぁ研究の話は置いておいて、つい昨日誕生日を迎えて24になってしまった。

 

地元の”まねきねこ”とかいう安いだけが取り柄のカラオケで

”見えないモノを見ようとして〜♫”

なんて叫んでいた中坊時代が10年前にもなると思うとゾッとする。あの頃の自分に24の自分について問えば、きっと自分はどこかで働いていると答えただろう。実際の将来なんて何も見えてないじゃないか。ふらふらっと24になってしまった気がするけども、この1年は特別に濃い1年だった気がする。1年前といえば、

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丁度表参道の格安シェアハウスを見つけて転がり込んだ頃だ。懐かしい。ここは就活シェアハウスという本当は地方から都内に就活だとかインターンだとかをしに東京に出てくる学生を助けたいとということで始まったシェアハウスである。

就活っ気が微塵もない僕を数ヶ月に渡って泊めてくれたことには感謝感謝である。

 

この1年は表参道での新生活から始まって、研究も新しいテーマでやりつつ、

中国、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、トルコ、アメリカ、カナダ

と割と趣味である海外を見ることを忙しい中を縫うように出来た気がする。 

結構海外好きだよね、って言われる自分だけども流石に8ヶ月ちょっとアメリカに居ると日本がどうしようも無く懐かしくなってくる。決してアメリカが嫌いとかじゃなくて。これだけ帰らないとただただ懐かしい。

 

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6月の梅雨も終わってるのかも分からない頃、大きな荷物を携えて中国の安い経由便にしごかれた末に成田に帰ってくる。寝落ちまいと電車にのって家にたどり着き、なんてことも無い親の手料理を貪る。

白い米といつものおかずが異様に旨く感じられる。。。。

”おかわり”

なんて言って、その間に疲れで寝落ちてしまって、朝気が付くと自分の布団の中にいる。

本当に家に戻ってきたのだろうか、夢では?

時差も相まって寝ぼけながらもそんな事を考えつつ、やはり自分の家に居ることをゆっくりと実感する。そして、落ち着くとまた二度寝を始めるのであった。

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以上妄想。

たまに暇な時は色々な妄想をして一番ドラマチックな帰国パターンを探ったりしている。けれど奇しくもそんな帰国の楽しみは少しばかりお預けになることになった。

 

嬉しいことに、こんな自分を夏の間インターンとして受け入れてくれる会社が見つかったからだ。

 

元から奨学金を応募する際に、留学が終わった後には少しアメリカの会社で働いてみたいと言っていたが、本当にそれが実現するのか正直自分でも怪しかった。元々行こうと思っていたB社にはExport controlという技術流出に関する厳しいアメリカの規制につっかかり話が無くなってしまったし、かじりかけの林檎を世界に出荷しているA社とは5回ほど面接があった末にチャラになってしまった。

その他諸々、挑戦しては惨敗して消沈していた訳だが、ふとした出会いから自分の大学のOBの方に出会い、嬉しいことにとあるスタートアップの企業を紹介して頂き、数度の面接の末にインターンとして受け入れてもらうことになった。

www.xconomy.com

詳しくはここに書いてあるが、MIT発の技術を使って無線充電のパイオニア的システムを作って、世の中の充電ケーブルを無くしてしまおうという僕らでもかなり魅力的に思える製品を世に送り出そうとしているハードウェアスタートアップだ。(よく見る充電パッドの上に携帯を置くタイプではなくて、一定の距離圏ならばwifiのように勝手に充電されるという優れものである。考えただけでも未来を感じる技術だ。)

 

自分が今まで経験してきた座学や基礎研究とは対局とも言える、スタートアップの風潮だとかスピード感のある開発を本場のシリコンバレー(のちょいと北の辺り)で関われるのは又とないチャンスだと感じている。面接ではポット出の自分がMITの博士まで出た絵に描いたような優秀なエンジニアに分からない質問を飛ばされまくり、自分の知識には甚だ心配ではあるが、それでもどうにかかじりつくであろう新しい生活を楽しみにしている。

 

ということで、留学が終わりかけてた自分にもう一度喝を入れることになった。

 

10年前の自分は大学院に進んでいるなんて思わなかったし、

数年前の自分は大学院の勉強をストップして留学してるなんて思わなかった、

2ヶ月前の自分ですらシアトルからシリコンバレーに移って就労するなんて思いもしなかった。

ちょっと先の未来なんて見えないもんだ。

 

だから予定は予定に過ぎない、けれども航空券の類はそれなりに予定を進める軸足になる。6/10に研究が終わり、6/20からカリフォルニアに居ます。8月末まで働いて、9月の1週目には中国経由で日本に帰る予定です。

”シアトルのコーヒーが欲しかったわ、グーグルのキーホルダーなんぞ要らんわ!!”

なんて言われてもカリフォルニアに行ってからじゃ遅いっすよ。

 

残り1ヶ月半、シアトルの人はよろしく。カリフォルニアの人たち、会いましょう。日本の人たち、帰国するその辺開けておいてくれると嬉しいっす。

 

以下適当に最近の写真。

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Vancuver: Capilano suspension bridge,

B4の時の研究室の先輩がやってきたので、バンクーバーまで遊びに。

 

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アメリカ式誕生日パーティー開いてもらった。

こうやって見るとアメリカでも沢山友達出来た様に見えるけど、否、である。

アメリカ式ではちょいちょい友達の友達(初対面の人)がやって来るのだ。せっかくだからこのうち何人が初対面だったかは言わないでおく。

写真にするとなんとも友達多い奴に見えるから良いもんである笑

 

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なんてことない写真だけども、これ50 年前位に日本で製造されたVivitar Series1ってレンズで撮ってます。なかなかぱりっとした描写をしてません?アメリカにはgoodwillという寄付式でNPOの中古屋があって使わなくなった寄付物品を破格で売っています。お店の性質上、古いレンズみたいなものは結構な数が安く取引されていて、休日に回ってガラクタを集めるのが自分の中で流行っています。嘗て日本人が手作業で丹精込めて作ったフィルムレンズにアメリカで出会うとなんとも言えない縁を感じて、つい手が出てしまいます。どうやらアメリカに2000店舗以上もあるみたいなんでアメリカにいる人は是非。

 

 

 

 

 

文化的マイノリティとか最近のこととか

僕は生まれてから23年ずっと日本で育ち、なんなら大学に入るまで本州すら出たことも無いドメスティックな人間だった。そんな僕が渡米すると、超え難い文化の壁だとかマイノリティだとか今まで考えもしなかった事をよく考えるようになった。どちらかと言うと考えざるを得ない状況になったと言ったほうがいい。

僕の居る所は一風変わった環境だと言えるだろう。 

僕は今アメリカの大学院の工学系の研究室に所属しており、ここではあから様に中華系が多いのである。メンバーはおそらく30人程度だろうか、もちろん日本人は僕一人だけで、欧米人(という言い方で良いのだろうか。)も数少ない、半分以上は中国・台湾からの学生である。特にこの傾向は上に行くほど顕著であって、学部生や修士はさておき、グループのボス2人を筆頭に、ポスドク、phDで見ると8,9割が中華圏の方々である。


彼らの何が凄いかというと、アメリカだというのに数で圧倒することで英会話も拙いような学生でもそのコミュニティに属すことで何不自由なく生活が出来てしまうことである。もちろん言語はマンダリン(中国の標準語)である。調度良く人が混ざれば

“お互いに違うけど理解し合おう!”

というよく有りそうな留学美談が成り立つのだろうが、ここではその構成比が極端なせいでそれは成り立たない。兎に角ここでは彼らがマジョリティで僕がマイノリティなのである。

 

彼らは常日頃から僕の手前でも平気で中国語で会話を行う。もちろん僕が何かを英語で問いかければ英語で返してくれる。その返答も人によってまちまちで流暢に喋れる人もいれば本当に英語でのコミュニケーションを取るのに苦労する人もいる。しかし彼らの語学力云々ではなく、重要なのは用件がない限り僕の分かる言葉で会話をしないということだ。特にしょうもない冗談や雑談の類のコミュニケーションが基本的に無いということが決定的に違う。さながら僕は北京にでも留学しているんじゃないかと思ったりする程だ。まぁ北京よりかシアトルの方が空気は澄んでいるが。

勿論彼らは時々ランチに誘ってくれ日本のことについて聞いてくれることがしばしばあり僕も嬉しい。しかし、それは僕が居文化の人間だと認識した上でそれを異色の文化として見ていて、同色になろうという訳では決してない。

 

僕の大学、研究室にも1割に満たない位だろうか留学生が居た。僕は英語の勉強にもなるし、考え方が違って面白いし、なんならいつもちょっと寂しそうにしているとも感じていて、彼らとたまに食事をしたり、会話をしたりしていた。しかし彼らが自分の中で1番に来ることはあまり無く、結局週末に遊ぶ友達は日本人だった気がする。結局自分もマジョリティの中にいる時はそれが心地良く、そこにすっぽり収まっていたというわけだ。留学生は何故か留学生同士で絡んでいるって通説があったけども今思うと至極当然のことだ。日本人には絶対的にマジョリティな日本人コミュニティがあり彼らにはそれが無いわけだから。これも結局立場が違えど同じ原理なんじゃないかと。

僕は折角留学に来ているし、当初はそれ以上の関係性を持ち言語の壁はあろうけども、それを跨ぎ超えて彼らと関わろうと躍起になった。思い返すとさながらドヤ顔で靴を履いたまま畳に上がる外国人だった。

 僕の場合は研究室も然り、シアトルという街自体がアジア人の人口が多くそれぞれの国の人が小さな文化圏コミュニティを作るのに十分な人がいる事もあって、多かれ少なかれ人は同じ文化圏で群れている気がする。最近では僕も色々と思うことはあったが日本人のコミュニティに居る気がするし、結構悪く無いとも感じてしまう。日本人と絡むというのはあまり良く聞こえないかも知れないが、留学先だからこそ細かなグルーピングを飛ばして日本人というだけで共感できるという不思議な空気感もある。ここだからこそ知り合えた人もいるわけで。そして、一人で他の文化圏に突っ込んで拒絶されるという失敗を通して、僕も日本人を数人誘って、相手の人らも数人同じコミュニティから人を出して飲みに行くと結構上手くいくし楽しい。相手の文化だとかホームに同化しようとせず、自分も他の文化に触れる事を前提に動くことが味噌なのかもしれない。人種っていうどうにも変え難いけどもはっきりと持っている物を改めて感じる事は日本では絶対に無かったことだと思うし、それはそれで1年足らずのうちの生活なら経験として悪くない。

 

 

 日頃思うけども、僕のブログはなんともネガティブな投稿が多い気がする。けどもそれは割と客観的に書くからワッと高ぶる感情が表に出てこないだけであって、留学生活が作る特殊な時間を肌で感じているし、それを差異としてそれなりに楽しんで考える材料位には昇華できていると思う。

 あとは文章で残すには及ばない(or 書くようなことじゃない) しょうもない糞な経験や、個人的に面白い、嬉しい出来事だとか諸々あったりする。飲みに行ったら2件目くらいまでは話せる事が有る気がしている。また3件目からしか語れない事もある。結局そういうのが主なんで、淡々と書く内容な重くなりがちなわけで、まぁ何が言いたいかというと僕はメンヘラの類じゃないから糞長い投稿にドン引きしないで欲しいという一点である。

 

最近のシアトルはあまり雨も降らなくなったし、神戸から移植されたという桜が咲き、空も高く透き通っている。雨ばかり降っていた半年とはガラッと変わりシアトルの夏の良さが語られる理由がわかってきた気がする。

 

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マウントレーニアがセンターに来るように中心通りが作られていてなんともいい眺め。僕のラボは奥の池の近辺。

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花見気分を味わえたのは予想外にテンションが上がる!キャンパスはほんとに綺麗っすよUW!

 

あとは忘れもしないこのブログの初稿で書いた、僕が研究室でデスクを貰えなかった件だが、自分がついていたグループのボス的な学生が遂に6年間の博士生活を終えて先週卒業していき、彼が使っていたデスクを譲ってもらえる運びになった。。。。

のだけど、デスクスペースを貰った、というよりコンパートメントで区切られた部屋が貰えた笑

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広い!広すぎる。6畳くらいだけどw

冷蔵庫とやかんも譲ってもらった、もう生活できるじゃんか!(ほぼしてる)

 

それと同時に自分が属する小さなリサーチグループには後輩も入ってきて、自分の部屋にプレゼンを見せに来る。あーだこーだアドバイス?的な事をしているとなんか偉い良い気分に見まわれて自惚れていたりするw

 

まぁ、最近はこんな感じです。

 

P.S. ぼちぼち帰国の目処が見えてきた気がするけども、僕はそれなりにアメリカでの生活を気に入っていて、もう少し長くこっちに居ようと画策してます。けれども、シアトルでの生活には大分満足してしまっていることもあって、おそらく7月以降はカリフォルニア近辺で下働きか何かをしている。(していたい)ので、また新しい生活が始まりそうです。そこら辺にその時期にカリフォルニアに居る人は宜しく。

父と留学と

僕は今から1年前のあの1週間を忘れはしない。
 
何故なら僕が人生において2つの大きな転機を迎えたからだ。
一つは父が他界したこと、もう一つは留学という又と無い機会を得たことだ。
 
 
「お父さんが死んだかもしれない!」
 
明け方のこと、母の血の気の引いた声とともに叩き起こされた僕はすぐに父のベットに駆け寄ったのを思い出す。父の顔は蒼白としていて、目の焦点は何処にも定まること無く虚しく宙を見ていた。僕と母の呼びかけも虚しくその朝僕の父は亡くなっていた。
 
享年63歳…些か早かったのではないか。男性の平均年齢が80歳位だという話は全く当てにならないもんである。
 
父はその1年半ほど前脳幹出血という症状に見まわれ、幸い意識だけはあったものの言語、体幹機能の殆どを奪われ寝たきりだった。そして僕の家族は父の介護を軸に疲弊していた。一人っ子で核家族な僕の家庭で家族と言った所で父以外には僕と母だけである。非常に無責任ではあるものの当時の僕は大学4年生、研究室に所属して多くの時間を研究に割き、4年間続けたアルバイトでは最上級生として働き、果てには留学したいなんて考えていて、まさに自分のやりたいことばかりしていた。そして父の主な介護は好きだったパートを辞め、友人の輪から離れて時間を作った母の仕事になりつつあった。
 
父が死んだ時、母はひどく自分を責めていた。
自分がもっとしっかり介護していればこんな事にはならなかったのではないかと。
僕もまた自分を責めていた。”学業”という名目で現実から目を逸らし続けたことを。
 
しかし、突発的な出来事に驚きを隠しきれなかったけど、僕は家庭の現状に限界を感じていたし、いつかこんな日を迎えるのでは無いだろうかという予期もしていた。多少考えていたよりは早かったもののその日は遂に来たのである。
 
変な話であるが、僕は父の死に対して父は何を思っているだろうかと思いを巡らせた。
何も出来ない。喋ることすらも。そんな自分の介護で家族は多くを犠牲にしている。その上に成り立っている不自由な日々が終わる時、父は何を思っただろうかと。その生活はおそらく耐え難いものだっただろう。父が唯一出来た意思表示はその指で1字づつ文字表から平仮名を拾っていき短い文を示すことだった。いつだっただろうか父は徐ろにボードを差して伝えた。
 
「だれもわかってくれない」
 
誰も分かってくれない。僕ら近くにいる家族でさえ父の事を完全には理解できていなかったという訳だ。
 
僕は父はきっと楽になれたと思う。誰も分かってくれない苦悩から解放された訳だから。そして皮肉な事だが僕と母も大きくのしかかる不安や複雑な何かがゆっくりと楽になっていく感覚を覚えた。しかしそれには罪悪感が伴ったし、不安が消えた代わりには嘗てない虚しさだとか後悔が残った。
 
もっと一緒に居る時間を作るべきだった、はやく仕事に就いてまともに生活している自分を見せてやりたかった、母の代わりに自分がもっと父の世話をするべきだった。。。。とキリがなく丸1日をそんな思考に費やす日もある程だった。
 
何より家族という括りの脆さを痛感した。
それまで22年間、当たり前に自分が所属していた家族という括りはある日を堺に無くなってしまった。残った母と自分では最早家族というより1対1の関係性が強かった。けれどそれでも家族である。
そしてもし母もふとした拍子で他界したら。。。その時は社会の中で自分は一人になるという恐怖にも強く駆られた。落ち着ける家族という括りがどれだけ大事だったのかを知った。
 
「老けた」
 
簡単に言うと僕はたった十数日でちょっと前とは全く異なる思考をするようになったし、20代が持ち合わせているべき楽観的な何かを失い10年分くらい老け込んだ感覚がある。しかし、そう考えていたのは悲しみのどん底に落ちて超ネガティブ思考になっていたからというのも原因だ。1年たった今でも同じような考えは持っているものの、何も出来ない程に1日をネガティブな思考に費やすような事は無くなった。
自分自信と向き合い、育ててくれた人が居なくなった事実とは向き合える様になった。そして、せめてこれからはもう少し後悔しないような生き方をしようと決めた。
 
しかし、依然として自分の交友関係に対してその事実を隠さないで生きることは簡単じゃない。これは自分の中で既に解決している事だけど、友人に話すとやはり場は非常に重い空気になってしまうし、時には涙を流してくれる人もいた。親しい友人数人とそんな話をする中で、やはり相手を悲しい気持ちにさせてしまうし、気軽に語る話題でもないと感じた。
かといって
 
「親父さん元気か!?」
「あぁ、元気だよ!」
 
としょうもない嘘が口から出る時にはとても大きな罪悪感に駆られてしまうし、そうやって嘘を塗り重ねる事に限界を感じていた。味わった事がない苦悩を知った時、それ自体の辛さに加えてそれを言葉にすることすら酷く憚られることもまた辛い。
自分はそんな経験をした。またきっと自分の周りにもそうやって人に言い出しづらい事があっても、それを見せないで気丈に振舞っている人がいるのだろうとも思う。
 
何も辛い話題を持ち寄って無理にそれを言葉にする必要は無い。そんなものは傷の舐め合いだし、辛い感情を連鎖させるだけだ。けれども、本当に辛い時にそれを言葉にする勇気も時には必要だし、そんな事を気をおかずに分かりあえる友人は掛け替えがない。同情してもらって誰かが悲劇の主人公になるんじゃなくて、ただある事実を分かっていたい、そうすれば少しお互いに楽に、振る舞いやすくなるだろうから。
 
だから1年が経った今、こうやって過去を振り返り綴ってみた。
 
けれど2015年は悲しいばかりの年じゃなかった。訃報の次には吉報も有った。
 
文部科学省の"トビタテ!留学JAPAN 日本代表プログラム"の第2期奨学生として1年間アメリカに留学する機会を得た事、そしてその奨学金のコミュニティに属して今まで会ったことのない刺激的な人たちと知り合えたことだ。
 
僕は父の病状の手前、口が裂けても
 
「1年間家族を置いて海外に学びに行きたい」
 
なんてことを特に父の前では言えなかった。けれど将来、家族を理由に、留学を"できなかった"と語るような事は例えそれが事実だとしても言い訳のように聞こえてしまう気がした。
だから、準備だけしてみよう。奨学金だってアプライしてみよう。悩む前に留学する準備を整えて、それから考えればいいじゃないか。辞めることはいつだってできるのだから。
 
そんなスタンスでがむしゃらに勉強した。
 
そして奇しくも自分にとっての最大の難関だった奨学金の合格通知が来たのは父の葬儀の前夜であった。
 
これは大学合格した時位に本当に嬉しかった。今でも悲しみのどん底の中で湧き上がるなんとも言えない感情でおかしくなりそうだった事はよく覚えている。亡くなった父や、いきなり旦那と一人息子に旅立たれることになる母には申し訳無さを感じはした。けどもこれは自分が努力した末に父がくれた又とないチャンスだと直感した。
 
母は一言
「老いぼれ老人(自分の事)に人生を引きずられるな。そんなのは親不孝だ。」
と僕の背中を押してくれた。
「アメリカに行ってやろう」
と意思が確実なものになっていくのが感じられた。
 
"世界中どこでも通用するエンジニアになりたい"
 
そんなことを留学の面接では掲げていた。僕の父親も嘗てはパンチテープ時代のコンピューターを弄るエンジニアであったそうで、小さいころから電化製品を分解したり、果ては買ったばかりのコンピューターを初日で分解してしまった僕を怒りもせずに、ものづくりの面白さを教えてくれたり秋葉原に小さな部品を買いに連れて行ってくれ、僕をこんな理系人間に育てたのは父親以外の誰でもない。
 
父は生活面では相当にだらしない人ではあったけども、僕はそんな父が本当に好きだったし、格好いいと思う部分もかなりあった。一方で母は40近くまで稼いだ金を旅に費やして好きなように飛び回っていた様な根っからの自由人だ。親戚にはこんな中で留学に行くのは間違いなく母親譲りだと言われた。悪い気はしなかった。
 
そんな感情を本人達を前に口にしたことは一度も無かったと思うが。こうやって父母の影を追っている自分を知る程に親子の強い繋がりを感じる。
 
その後トビタテを通して沢山の人に会った。その時期はもの凄く俯きがちな時期だったがトビタテでの新しい出会いや、卒業シーズンでの友人との旅行や飲み会があったお陰でかなり元気な状態でいれた。あの頃に僕と関わってくれた人には本当に感謝している。またもそんな事は口から出ることは無いのだが。
 
3月にはトビタテの合格者を集めて壮行会があり、そこで大口の出資者である孫正義さんのスピーチ映像が放映された。
彼もまた父が血を吐いて倒れ、家庭が大変な中何かを学びにアメリカに飛び立った一人であった。
彼が当時親戚から言われたという以下の台詞。
 
「家族が大変な中お前は学生の身分で、ましてや一人楽しくアメリカ留学とはどういうことだ?」
 
この一文は他人の話に聞こえないくらいに自分の心に刺さったし、そして彼は自分が先天的に置かれた困難な中でがむしゃらに努力し成果を上げ今に至るという話に僕は酷く鼓舞された。
 
果たして自分はこれだけの金、時間をつぎ込んで何を得られるのだろうか。とその頃よく考えていたのだが、孫さんの話を聞いて、結局答えは見つからないが、とにかくがむしゃらにやってやるしか無いという事で落ち着いた。
 
留学に来て約半年が経った。
 
当初は、語学もこちらでの研究も授業も、寸暇を惜しんで頑張っている自分がいた気がする。"自分に留学の機会をくれた人たちに申し訳が立たない”と。そして"早く成果を上げたい"と。ある種の強迫観念的なものに取り憑かれていた。
 
しかし半年も経つとこちらの生活の目新しさも消えて少し惰性的になってくる。勿論、自分の時間を大事にできるようになった事は悪い事ばかりではない。けれど残された時間をどう使うのかは改めて考えたい。あの忘れられない1週間の出来事から1年が経ち、渡米して半年が経ちふと当時を思い出したこのタイミングを機に。
 
父の件で良く分かったのは自分が持つ時間には限りがあり、それは僕ら若い世代が思っているより短いということだ。1回きりの人生を無駄には出来ない。何だって構わない、残りの半年ないし数ヶ月で自分の好きな方向に出来るだけの努力を尽くしたい。
 
そして帰国する頃には、遂に留学することを知り得なかった父に胸を張って留学から帰ってきたと報告できる自分でありたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

天下一武道会@ボストン

                               〜ボストンキャリアフォーラム〜

                 アメリカでは毎年秋、全米の日本人留学生がボストンに会しその

                                      " 語学力・知性・コミュ力、その他諸々 "

                                   を戦わせ、内定を争う武道会が開催される。

                          そして面接での勝者のみがディナーへの参加を許され

              面接官と同じ釜の飯を喰らい、共に面接を受けた戦友との絆を深め、

                                          最後には内定を掴み取るのである。

 

        このドラゴンボールで言うところの天下一武道会に相当するイベントが所謂

                          ” ボストンキャリアフォーラム(通称ボスキャリ)"

                                                               である。

 

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圧倒的日本人ンンンッ!!!

さて、 そんな勝ち気な留学生に混じり僕も足を運んだので、誰かへの参考程度に感想を残す。3日間を通して色々と思うところがあったが、僕が特に重要だと思った以下の項目について書く。

 

  • 逆さまに参加準備を進めること
  • 事前に計らうこと
  • ぼっちは避ける

 

  •  逆さまに参加準備を進めること

ボスキャリと言えば留学生向けの就活イベントなので

" 留学する→ボスキャリ参加を考える→参加企業見る→参加予約、宿を手配 "

といった流れを考えがちだ。しかし、参加のコストを節約したいなら、

"参加予約、宿を手配→参加企業を見る→ボスキャリ参加を考える→留学する"

がいい気がする。ボスキャリに掛かる支出は、主に宿と航空券が大部分を占める。

 

宿は日系200社程度の社員、留学生数千人が取り合うので、この期間だけ相当値上がりするし、安い宿はかなり早い段階で埋まる。

僕はAirbnbを使ったが、多くの場合で直前までのキャンセルが無料だったしかなり安いところもあった。多少面倒だがキャンセルを視野に入れて宿を取ってしまうのが吉だ。一泊50$を切る位で泊まれればかなりいい線だと思う。

航空券はキャンセルが効かないので手が打ちづらい、これはどうしようもない。しかしBCFサイト参加予約だけは早くするべきだ。何故なら、ボスキャリの運営をしているCFNでは、トラベルスカラシップ(航空券代程のキャッシュバック)を用意しており、通説でこれは早く応募したほうが貰いやすいらしい。

(因みに僕と泊まった友達は誰も貰えていなかった。BCFにはもうちょっと採用人数で頑張って欲しい)

さくっと応募用のアカウントとレジュメを作って応募してしまおう。

(このレジュメの内容は卒業年度が遠すぎないかという事以外はほぼ見られていない、、と思う。)

留学してから〜、ではなくここまでは6〜7月頃に済ませておくと良いだろう。

特に貧乏症な私だと、ボスキャリの参加コストと参加企業を天秤にかけてしまうので、コストが安い方が参加への心の障壁は低くなって結果参加できて何かしらの成果を得ることができる(かもしれない)。

 

 

  • 事前の計らい

これは参加を決めた場合の企業へのアプライについて。ボスキャリと言うと

                                                        "3日で内定!"

 というフレーズと共に多くの大学生が夢を見ている気がする。しかし、世の中そんなに甘い話はないもんで、大多数の交換留学生にとって3日だけで満足度の高い結果を得ることはそう簡単では無い様だ。

ボスキャリでは事前に応募し、ES選考、Skypeや電話等の面接を事前に行う事前応募と、当日いきなり履歴書を持ってブースにて応募するウォークインがあるが、やはり事前応募で淡々と準備を進めてきた学生が多くの場合で有利に思えた。

 

そもそもこのウォークインというのが曲者であって、尚且つ特有の面白い文化である。

いきなり会社の説明会を聞いた直後に、使い回しのESピラ一枚を出して、面接が次の日に入り、その日のうちに人事と食事、内定をもらっちゃうなんてことも起こるわけである。

「さっき御社を知りました、志望してます!」

なんて日本では言えたもんじゃないが、これがここではある程度許されるのである。勿論、「何も知らない」じゃ到底面接は通らないが。

意外と大事なのが、事前応募でお祈りされていても、当日のウォークインでは再度応募することができる点だ。志望度が高い企業であればウォークインまでしぶとく行くのは全然アリだ。

しかしこのウォークイン、当日は相当数の学生が足繁くブースを回っており、自分を差別化するのが容易ではないと感じた。志望度が高くなくても数撃ちゃ理論でとにかくウォークインを多くしている学生もいる。特にウォークイン→面接までのステップではスピーディかつ大量に振るい掛けがあるので、志望度が高くても自分より見栄え良い学歴・経歴を持つだけの他の学生に蹴落とされるということはこのスピード感の中では十分に起こる。

やはり、志望する企業であれば必ず事前応募で確実に面接枠をゲットするのが効率的だ。

 

  • ぼっちは避ける

さて、ついに当日がやって来る。ゲットした面接を優先しつつ、興味のある業界、企業が他にあれば練習がてらウォークインしてみると良い。

一つオススメしたいのは、一緒に参加している友人やここで新しくできる知人とよく情報を交換することだ。ボスキャリの選考はどうにもスピーディーで不明瞭な部分も多い、そして実力もそうだが、結構ボスキャリならではのテクニックもあるのを僕は実感した。これらは、同じタイミングで同じ業界に志望している人と共有する中で得るに限る。また、もしかしたら彼らと一緒に内定をもらい将来の同僚にってこともあり得るわけだから。

そして、ボスキャリは結構疲れる。とくに面接、ディナーと続くと丸一日気が抜けない。そこで僕がおすすめしたいのは、ある程度の参加者を集めて夜を飲むなり、飯を食うなりして愚痴をこぼしつつその日の振る舞いを振り返ることだ。

僕は同じ奨学金でアメリカに来ている人ら5人と、Airbnbで家を一軒貸し切った。初めて使ってみたが不便も無かったばかりでなく、夜の時間はかなり楽しかったし、自分の何がダメだったかとか、明日こうした方がいいんじゃない?みたいな話が沢山出てきて良かった。また、ちょっとした同窓会気分も味わえた。

就活だから一人でデスクの広いホテルを取って完璧だ!ってのよりかは、この機会を友人と一緒に楽しめるくらいの気概を持ってた方が3日間をやり切れると感じた。あとは、会場までの地下鉄アクセスはあまり良くない。一番近い地下鉄駅からでも20分位は歩く。トビタテの友人が会場に十分近い地下鉄駅があると教えてくれました。)その点でも、ある程度人数がいればUberというサービスで1台10数ドルでタクシーを呼んで割り勘で会場の真ん前まで行ける。

 

さて、最後に個人的な感想。

僕は卒業が2017/9 or 2018/3の理工系大学院生だ。卒業時期が今回のメインターゲットと違ったということで、日系のメーカーは殆ど受け入れてくれなかった。そのため、数少ない僕の卒業年度を受け入れてくれる企業からの選択だったわけだが、以前から良く知っていて興味もあった外資系のメーカーが2社あったので、かなり早い段階で事前に応募した。手が早かったこともあり、電話越しに面接が一回あった後、面接とディナーの段取りを整えて貰った。

 まだ、就職なんてものを手に取る距離で考えた事は無かったが、3日間(実質2日)だけ就活に没頭する中で、ある程度自分が何をしたいのか良く考えるキッカケになったし、ディナーでそこで働く人達と時間を掛けて色々な話を聞けたことは、参加するに値する経験だったと思う。

とは言うものの参加にかかるコストも安くないし、時期で言うとかなりいい感じにアメリカの大学の試験に被ってくる。そして手放しに参加しても大した対価が得られるとは思わない。けど考え方は人それぞれ。ある程度早く手を打ってコストを安く抑えられたのなら、就活が少し先の学生でも参加を考えてみても良いのかもしれない。 

 

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以下、参考までに僕の泊まった宿。使ったサービス。

www.airbnb.jp

3つのクイーンサイズベットのある家で、6人で泊まって一人1泊50ドルだった。空港からは頑張れば徒歩でも来れる良好なアクセス。冷蔵庫に歓迎のケーキとワインが入ってた!

 

Airbnb。なんと、友達紹介で20$OFF(僕も笑

www.airbnb.jp

 Uberも貼っておく。これも紹介で良いことがある()

https://get.uber.com/invite/p4kqf3q9ue