Trees_of_Spring

2015/9~アメリカの大学院にて工学系の研究をしています。2016/7~シリコンバレー近辺のハードウェアスタートアップで製品の開発をしています。あんまり研究の話はなく個人的なことばかり書こうかと。こんなんですがトビタテ!留学JAPANという文科省のプログラムに採択されてありがたくアメリカで生活を送れています。何かあればどうぞ→Mail: tut.it.mus1c[あっと]じーめーるどっとこむ

父と留学と

僕は今から1年前のあの1週間を忘れはしない。
 
何故なら僕が人生において2つの大きな転機を迎えたからだ。
一つは父が他界したこと、もう一つは留学という又と無い機会を得たことだ。
 
 
「お父さんが死んだかもしれない!」
 
明け方のこと、母の血の気の引いた声とともに叩き起こされた僕はすぐに父のベットに駆け寄ったのを思い出す。父の顔は蒼白としていて、目の焦点は何処にも定まること無く虚しく宙を見ていた。僕と母の呼びかけも虚しくその朝僕の父は亡くなっていた。
 
享年63歳…些か早かったのではないか。男性の平均年齢が80歳位だという話は全く当てにならないもんである。
 
父はその1年半ほど前脳幹出血という症状に見まわれ、幸い意識だけはあったものの言語、体幹機能の殆どを奪われ寝たきりだった。そして僕の家族は父の介護を軸に疲弊していた。一人っ子で核家族な僕の家庭で家族と言った所で父以外には僕と母だけである。非常に無責任ではあるものの当時の僕は大学4年生、研究室に所属して多くの時間を研究に割き、4年間続けたアルバイトでは最上級生として働き、果てには留学したいなんて考えていて、まさに自分のやりたいことばかりしていた。そして父の主な介護は好きだったパートを辞め、友人の輪から離れて時間を作った母の仕事になりつつあった。
 
父が死んだ時、母はひどく自分を責めていた。
自分がもっとしっかり介護していればこんな事にはならなかったのではないかと。
僕もまた自分を責めていた。”学業”という名目で現実から目を逸らし続けたことを。
 
しかし、突発的な出来事に驚きを隠しきれなかったけど、僕は家庭の現状に限界を感じていたし、いつかこんな日を迎えるのでは無いだろうかという予期もしていた。多少考えていたよりは早かったもののその日は遂に来たのである。
 
変な話であるが、僕は父の死に対して父は何を思っているだろうかと思いを巡らせた。
何も出来ない。喋ることすらも。そんな自分の介護で家族は多くを犠牲にしている。その上に成り立っている不自由な日々が終わる時、父は何を思っただろうかと。その生活はおそらく耐え難いものだっただろう。父が唯一出来た意思表示はその指で1字づつ文字表から平仮名を拾っていき短い文を示すことだった。いつだっただろうか父は徐ろにボードを差して伝えた。
 
「だれもわかってくれない」
 
誰も分かってくれない。僕ら近くにいる家族でさえ父の事を完全には理解できていなかったという訳だ。
 
僕は父はきっと楽になれたと思う。誰も分かってくれない苦悩から解放された訳だから。そして皮肉な事だが僕と母も大きくのしかかる不安や複雑な何かがゆっくりと楽になっていく感覚を覚えた。しかしそれには罪悪感が伴ったし、不安が消えた代わりには嘗てない虚しさだとか後悔が残った。
 
もっと一緒に居る時間を作るべきだった、はやく仕事に就いてまともに生活している自分を見せてやりたかった、母の代わりに自分がもっと父の世話をするべきだった。。。。とキリがなく丸1日をそんな思考に費やす日もある程だった。
 
何より家族という括りの脆さを痛感した。
それまで22年間、当たり前に自分が所属していた家族という括りはある日を堺に無くなってしまった。残った母と自分では最早家族というより1対1の関係性が強かった。けれどそれでも家族である。
そしてもし母もふとした拍子で他界したら。。。その時は社会の中で自分は一人になるという恐怖にも強く駆られた。落ち着ける家族という括りがどれだけ大事だったのかを知った。
 
「老けた」
 
簡単に言うと僕はたった十数日でちょっと前とは全く異なる思考をするようになったし、20代が持ち合わせているべき楽観的な何かを失い10年分くらい老け込んだ感覚がある。しかし、そう考えていたのは悲しみのどん底に落ちて超ネガティブ思考になっていたからというのも原因だ。1年たった今でも同じような考えは持っているものの、何も出来ない程に1日をネガティブな思考に費やすような事は無くなった。
自分自信と向き合い、育ててくれた人が居なくなった事実とは向き合える様になった。そして、せめてこれからはもう少し後悔しないような生き方をしようと決めた。
 
しかし、依然として自分の交友関係に対してその事実を隠さないで生きることは簡単じゃない。これは自分の中で既に解決している事だけど、友人に話すとやはり場は非常に重い空気になってしまうし、時には涙を流してくれる人もいた。親しい友人数人とそんな話をする中で、やはり相手を悲しい気持ちにさせてしまうし、気軽に語る話題でもないと感じた。
かといって
 
「親父さん元気か!?」
「あぁ、元気だよ!」
 
としょうもない嘘が口から出る時にはとても大きな罪悪感に駆られてしまうし、そうやって嘘を塗り重ねる事に限界を感じていた。味わった事がない苦悩を知った時、それ自体の辛さに加えてそれを言葉にすることすら酷く憚られることもまた辛い。
自分はそんな経験をした。またきっと自分の周りにもそうやって人に言い出しづらい事があっても、それを見せないで気丈に振舞っている人がいるのだろうとも思う。
 
何も辛い話題を持ち寄って無理にそれを言葉にする必要は無い。そんなものは傷の舐め合いだし、辛い感情を連鎖させるだけだ。けれども、本当に辛い時にそれを言葉にする勇気も時には必要だし、そんな事を気をおかずに分かりあえる友人は掛け替えがない。同情してもらって誰かが悲劇の主人公になるんじゃなくて、ただある事実を分かっていたい、そうすれば少しお互いに楽に、振る舞いやすくなるだろうから。
 
だから1年が経った今、こうやって過去を振り返り綴ってみた。
 
けれど2015年は悲しいばかりの年じゃなかった。訃報の次には吉報も有った。
 
文部科学省の"トビタテ!留学JAPAN 日本代表プログラム"の第2期奨学生として1年間アメリカに留学する機会を得た事、そしてその奨学金のコミュニティに属して今まで会ったことのない刺激的な人たちと知り合えたことだ。
 
僕は父の病状の手前、口が裂けても
 
「1年間家族を置いて海外に学びに行きたい」
 
なんてことを特に父の前では言えなかった。けれど将来、家族を理由に、留学を"できなかった"と語るような事は例えそれが事実だとしても言い訳のように聞こえてしまう気がした。
だから、準備だけしてみよう。奨学金だってアプライしてみよう。悩む前に留学する準備を整えて、それから考えればいいじゃないか。辞めることはいつだってできるのだから。
 
そんなスタンスでがむしゃらに勉強した。
 
そして奇しくも自分にとっての最大の難関だった奨学金の合格通知が来たのは父の葬儀の前夜であった。
 
これは大学合格した時位に本当に嬉しかった。今でも悲しみのどん底の中で湧き上がるなんとも言えない感情でおかしくなりそうだった事はよく覚えている。亡くなった父や、いきなり旦那と一人息子に旅立たれることになる母には申し訳無さを感じはした。けどもこれは自分が努力した末に父がくれた又とないチャンスだと直感した。
 
母は一言
「老いぼれ老人(自分の事)に人生を引きずられるな。そんなのは親不孝だ。」
と僕の背中を押してくれた。
「アメリカに行ってやろう」
と意思が確実なものになっていくのが感じられた。
 
"世界中どこでも通用するエンジニアになりたい"
 
そんなことを留学の面接では掲げていた。僕の父親も嘗てはパンチテープ時代のコンピューターを弄るエンジニアであったそうで、小さいころから電化製品を分解したり、果ては買ったばかりのコンピューターを初日で分解してしまった僕を怒りもせずに、ものづくりの面白さを教えてくれたり秋葉原に小さな部品を買いに連れて行ってくれ、僕をこんな理系人間に育てたのは父親以外の誰でもない。
 
父は生活面では相当にだらしない人ではあったけども、僕はそんな父が本当に好きだったし、格好いいと思う部分もかなりあった。一方で母は40近くまで稼いだ金を旅に費やして好きなように飛び回っていた様な根っからの自由人だ。親戚にはこんな中で留学に行くのは間違いなく母親譲りだと言われた。悪い気はしなかった。
 
そんな感情を本人達を前に口にしたことは一度も無かったと思うが。こうやって父母の影を追っている自分を知る程に親子の強い繋がりを感じる。
 
その後トビタテを通して沢山の人に会った。その時期はもの凄く俯きがちな時期だったがトビタテでの新しい出会いや、卒業シーズンでの友人との旅行や飲み会があったお陰でかなり元気な状態でいれた。あの頃に僕と関わってくれた人には本当に感謝している。またもそんな事は口から出ることは無いのだが。
 
3月にはトビタテの合格者を集めて壮行会があり、そこで大口の出資者である孫正義さんのスピーチ映像が放映された。
彼もまた父が血を吐いて倒れ、家庭が大変な中何かを学びにアメリカに飛び立った一人であった。
彼が当時親戚から言われたという以下の台詞。
 
「家族が大変な中お前は学生の身分で、ましてや一人楽しくアメリカ留学とはどういうことだ?」
 
この一文は他人の話に聞こえないくらいに自分の心に刺さったし、そして彼は自分が先天的に置かれた困難な中でがむしゃらに努力し成果を上げ今に至るという話に僕は酷く鼓舞された。
 
果たして自分はこれだけの金、時間をつぎ込んで何を得られるのだろうか。とその頃よく考えていたのだが、孫さんの話を聞いて、結局答えは見つからないが、とにかくがむしゃらにやってやるしか無いという事で落ち着いた。
 
留学に来て約半年が経った。
 
当初は、語学もこちらでの研究も授業も、寸暇を惜しんで頑張っている自分がいた気がする。"自分に留学の機会をくれた人たちに申し訳が立たない”と。そして"早く成果を上げたい"と。ある種の強迫観念的なものに取り憑かれていた。
 
しかし半年も経つとこちらの生活の目新しさも消えて少し惰性的になってくる。勿論、自分の時間を大事にできるようになった事は悪い事ばかりではない。けれど残された時間をどう使うのかは改めて考えたい。あの忘れられない1週間の出来事から1年が経ち、渡米して半年が経ちふと当時を思い出したこのタイミングを機に。
 
父の件で良く分かったのは自分が持つ時間には限りがあり、それは僕ら若い世代が思っているより短いということだ。1回きりの人生を無駄には出来ない。何だって構わない、残りの半年ないし数ヶ月で自分の好きな方向に出来るだけの努力を尽くしたい。
 
そして帰国する頃には、遂に留学することを知り得なかった父に胸を張って留学から帰ってきたと報告できる自分でありたい。