Trees_of_Spring

2015/9~アメリカの大学院への留学を機にブログ開設しました。2016/6~9サンフランシスコでスタートアップでエンジニア、帰国後、院生活を終えて2018~働いています。個人的なことメイン。何かあればどうぞ→Mail: tut.it.mus1c[あっと]じーめーるどっとこむ

父と留学と

僕は今から1年前のあの1週間を忘れはしない。
 
何故なら僕が人生において2つの大きな転機を迎えたからだ。
一つは父が他界したこと、もう一つは留学という又と無い機会を得たことだ。
 
 
「お父さんが死んだかもしれない!」
 
明け方のこと、母の血の気の引いた声とともに叩き起こされた僕はすぐに父のベットに駆け寄ったのを思い出す。父の顔は蒼白としていて、目の焦点は何処にも定まること無く虚しく宙を見ていた。僕と母の呼びかけも虚しくその朝僕の父は亡くなっていた。
 
享年63歳…些か早かったのではないか。男性の平均年齢が80歳位だという話は全く当てにならないもんである。
 
父はその1年半ほど前脳幹出血という症状に見まわれ、幸い意識だけはあったものの言語、体幹機能の殆どを奪われ寝たきりだった。そして僕の家族は父の介護を軸に疲弊していた。一人っ子で核家族な僕の家庭で家族と言った所で父以外には僕と母だけである。非常に無責任ではあるものの当時の僕は大学4年生、研究室に所属して多くの時間を研究に割き、4年間続けたアルバイトでは最上級生として働き、果てには留学したいなんて考えていて、まさに自分のやりたいことばかりしていた。そして父の主な介護は好きだったパートを辞め、友人の輪から離れて時間を作った母の仕事になりつつあった。
 
父が死んだ時、母はひどく自分を責めていた。
自分がもっとしっかり介護していればこんな事にはならなかったのではないかと。
僕もまた自分を責めていた。”学業”という名目で現実から目を逸らし続けたことを。
 
しかし、突発的な出来事に驚きを隠しきれなかったけど、僕は家庭の現状に限界を感じていたし、いつかこんな日を迎えるのでは無いだろうかという予期もしていた。多少考えていたよりは早かったもののその日は遂に来たのである。
 
変な話であるが、僕は父の死に対して父は何を思っているだろうかと思いを巡らせた。
何も出来ない。喋ることすらも。そんな自分の介護で家族は多くを犠牲にしている。その上に成り立っている不自由な日々が終わる時、父は何を思っただろうかと。その生活はおそらく耐え難いものだっただろう。父が唯一出来た意思表示はその指で1字づつ文字表から平仮名を拾っていき短い文を示すことだった。いつだっただろうか父は徐ろにボードを差して伝えた。
 
「だれもわかってくれない」
 
誰も分かってくれない。僕ら近くにいる家族でさえ父の事を完全には理解できていなかったという訳だ。
 
僕は父はきっと楽になれたと思う。誰も分かってくれない苦悩から解放された訳だから。そして皮肉な事だが僕と母も大きくのしかかる不安や複雑な何かがゆっくりと楽になっていく感覚を覚えた。しかしそれには罪悪感が伴ったし、不安が消えた代わりには嘗てない虚しさだとか後悔が残った。
 
もっと一緒に居る時間を作るべきだった、はやく仕事に就いてまともに生活している自分を見せてやりたかった、母の代わりに自分がもっと父の世話をするべきだった。。。。とキリがなく丸1日をそんな思考に費やす日もある程だった。
 
何より家族という括りの脆さを痛感した。
それまで22年間、当たり前に自分が所属していた家族という括りはある日を堺に無くなってしまった。残った母と自分では最早家族というより1対1の関係性が強かった。けれどそれでも家族である。
そしてもし母もふとした拍子で他界したら。。。その時は社会の中で自分は一人になるという恐怖にも強く駆られた。落ち着ける家族という括りがどれだけ大事だったのかを知った。
 
「老けた」
 
簡単に言うと僕はたった十数日でちょっと前とは全く異なる思考をするようになったし、20代が持ち合わせているべき楽観的な何かを失い10年分くらい老け込んだ感覚がある。しかし、そう考えていたのは悲しみのどん底に落ちて超ネガティブ思考になっていたからというのも原因だ。1年たった今でも同じような考えは持っているものの、何も出来ない程に1日をネガティブな思考に費やすような事は無くなった。
自分自信と向き合い、育ててくれた人が居なくなった事実とは向き合える様になった。そして、せめてこれからはもう少し後悔しないような生き方をしようと決めた。
 
しかし、依然として自分の交友関係に対してその事実を隠さないで生きることは簡単じゃない。これは自分の中で既に解決している事だけど、友人に話すとやはり場は非常に重い空気になってしまうし、時には涙を流してくれる人もいた。親しい友人数人とそんな話をする中で、やはり相手を悲しい気持ちにさせてしまうし、気軽に語る話題でもないと感じた。
かといって
 
「親父さん元気か!?」
「あぁ、元気だよ!」
 
としょうもない嘘が口から出る時にはとても大きな罪悪感に駆られてしまうし、そうやって嘘を塗り重ねる事に限界を感じていた。味わった事がない苦悩を知った時、それ自体の辛さに加えてそれを言葉にすることすら酷く憚られることもまた辛い。
自分はそんな経験をした。またきっと自分の周りにもそうやって人に言い出しづらい事があっても、それを見せないで気丈に振舞っている人がいるのだろうとも思う。
 
何も辛い話題を持ち寄って無理にそれを言葉にする必要は無い。そんなものは傷の舐め合いだし、辛い感情を連鎖させるだけだ。けれども、本当に辛い時にそれを言葉にする勇気も時には必要だし、そんな事を気をおかずに分かりあえる友人は掛け替えがない。同情してもらって誰かが悲劇の主人公になるんじゃなくて、ただある事実を分かっていたい、そうすれば少しお互いに楽に、振る舞いやすくなるだろうから。
 
だから1年が経った今、こうやって過去を振り返り綴ってみた。
 
けれど2015年は悲しいばかりの年じゃなかった。訃報の次には吉報も有った。
 
文部科学省の"トビタテ!留学JAPAN 日本代表プログラム"の第2期奨学生として1年間アメリカに留学する機会を得た事、そしてその奨学金のコミュニティに属して今まで会ったことのない刺激的な人たちと知り合えたことだ。
 
僕は父の病状の手前、口が裂けても
 
「1年間家族を置いて海外に学びに行きたい」
 
なんてことを特に父の前では言えなかった。けれど将来、家族を理由に、留学を"できなかった"と語るような事は例えそれが事実だとしても言い訳のように聞こえてしまう気がした。
だから、準備だけしてみよう。奨学金だってアプライしてみよう。悩む前に留学する準備を整えて、それから考えればいいじゃないか。辞めることはいつだってできるのだから。
 
そんなスタンスでがむしゃらに勉強した。
 
そして奇しくも自分にとっての最大の難関だった奨学金の合格通知が来たのは父の葬儀の前夜であった。
 
これは大学合格した時位に本当に嬉しかった。今でも悲しみのどん底の中で湧き上がるなんとも言えない感情でおかしくなりそうだった事はよく覚えている。亡くなった父や、いきなり旦那と一人息子に旅立たれることになる母には申し訳無さを感じはした。けどもこれは自分が努力した末に父がくれた又とないチャンスだと直感した。
 
母は一言
「老いぼれ老人(自分の事)に人生を引きずられるな。そんなのは親不孝だ。」
と僕の背中を押してくれた。
「アメリカに行ってやろう」
と意思が確実なものになっていくのが感じられた。
 
"世界中どこでも通用するエンジニアになりたい"
 
そんなことを留学の面接では掲げていた。僕の父親も嘗てはパンチテープ時代のコンピューターを弄るエンジニアであったそうで、小さいころから電化製品を分解したり、果ては買ったばかりのコンピューターを初日で分解してしまった僕を怒りもせずに、ものづくりの面白さを教えてくれたり秋葉原に小さな部品を買いに連れて行ってくれ、僕をこんな理系人間に育てたのは父親以外の誰でもない。
 
父は生活面では相当にだらしない人ではあったけども、僕はそんな父が本当に好きだったし、格好いいと思う部分もかなりあった。一方で母は40近くまで稼いだ金を旅に費やして好きなように飛び回っていた様な根っからの自由人だ。親戚にはこんな中で留学に行くのは間違いなく母親譲りだと言われた。悪い気はしなかった。
 
そんな感情を本人達を前に口にしたことは一度も無かったと思うが。こうやって父母の影を追っている自分を知る程に親子の強い繋がりを感じる。
 
その後トビタテを通して沢山の人に会った。その時期はもの凄く俯きがちな時期だったがトビタテでの新しい出会いや、卒業シーズンでの友人との旅行や飲み会があったお陰でかなり元気な状態でいれた。あの頃に僕と関わってくれた人には本当に感謝している。またもそんな事は口から出ることは無いのだが。
 
3月にはトビタテの合格者を集めて壮行会があり、そこで大口の出資者である孫正義さんのスピーチ映像が放映された。
彼もまた父が血を吐いて倒れ、家庭が大変な中何かを学びにアメリカに飛び立った一人であった。
彼が当時親戚から言われたという以下の台詞。
 
「家族が大変な中お前は学生の身分で、ましてや一人楽しくアメリカ留学とはどういうことだ?」
 
この一文は他人の話に聞こえないくらいに自分の心に刺さったし、そして彼は自分が先天的に置かれた困難な中でがむしゃらに努力し成果を上げ今に至るという話に僕は酷く鼓舞された。
 
果たして自分はこれだけの金、時間をつぎ込んで何を得られるのだろうか。とその頃よく考えていたのだが、孫さんの話を聞いて、結局答えは見つからないが、とにかくがむしゃらにやってやるしか無いという事で落ち着いた。
 
留学に来て約半年が経った。
 
当初は、語学もこちらでの研究も授業も、寸暇を惜しんで頑張っている自分がいた気がする。"自分に留学の機会をくれた人たちに申し訳が立たない”と。そして"早く成果を上げたい"と。ある種の強迫観念的なものに取り憑かれていた。
 
しかし半年も経つとこちらの生活の目新しさも消えて少し惰性的になってくる。勿論、自分の時間を大事にできるようになった事は悪い事ばかりではない。けれど残された時間をどう使うのかは改めて考えたい。あの忘れられない1週間の出来事から1年が経ち、渡米して半年が経ちふと当時を思い出したこのタイミングを機に。
 
父の件で良く分かったのは自分が持つ時間には限りがあり、それは僕ら若い世代が思っているより短いということだ。1回きりの人生を無駄には出来ない。何だって構わない、残りの半年ないし数ヶ月で自分の好きな方向に出来るだけの努力を尽くしたい。
 
そして帰国する頃には、遂に留学することを知り得なかった父に胸を張って留学から帰ってきたと報告できる自分でありたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

天下一武道会@ボストン

                               〜ボストンキャリアフォーラム〜

                 アメリカでは毎年秋、全米の日本人留学生がボストンに会しその

                                      " 語学力・知性・コミュ力、その他諸々 "

                                   を戦わせ、内定を争う武道会が開催される。

                          そして面接での勝者のみがディナーへの参加を許され

              面接官と同じ釜の飯を喰らい、共に面接を受けた戦友との絆を深め、

                                          最後には内定を掴み取るのである。

 

        このドラゴンボールで言うところの天下一武道会に相当するイベントが所謂

                          ” ボストンキャリアフォーラム(通称ボスキャリ)"

                                                               である。

 

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圧倒的日本人ンンンッ!!!

さて、 そんな勝ち気な留学生に混じり僕も足を運んだので、誰かへの参考程度に感想を残す。3日間を通して色々と思うところがあったが、僕が特に重要だと思った以下の項目について書く。

 

  • 逆さまに参加準備を進めること
  • 事前に計らうこと
  • ぼっちは避ける

 

  •  逆さまに参加準備を進めること

ボスキャリと言えば留学生向けの就活イベントなので

" 留学する→ボスキャリ参加を考える→参加企業見る→参加予約、宿を手配 "

といった流れを考えがちだ。しかし、参加のコストを節約したいなら、

"参加予約、宿を手配→参加企業を見る→ボスキャリ参加を考える→留学する"

がいい気がする。ボスキャリに掛かる支出は、主に宿と航空券が大部分を占める。

 

宿は日系200社程度の社員、留学生数千人が取り合うので、この期間だけ相当値上がりするし、安い宿はかなり早い段階で埋まる。

僕はAirbnbを使ったが、多くの場合で直前までのキャンセルが無料だったしかなり安いところもあった。多少面倒だがキャンセルを視野に入れて宿を取ってしまうのが吉だ。一泊50$を切る位で泊まれればかなりいい線だと思う。

航空券はキャンセルが効かないので手が打ちづらい、これはどうしようもない。しかしBCFサイト参加予約だけは早くするべきだ。何故なら、ボスキャリの運営をしているCFNでは、トラベルスカラシップ(航空券代程のキャッシュバック)を用意しており、通説でこれは早く応募したほうが貰いやすいらしい。

(因みに僕と泊まった友達は誰も貰えていなかった。BCFにはもうちょっと採用人数で頑張って欲しい)

さくっと応募用のアカウントとレジュメを作って応募してしまおう。

(このレジュメの内容は卒業年度が遠すぎないかという事以外はほぼ見られていない、、と思う。)

留学してから〜、ではなくここまでは6〜7月頃に済ませておくと良いだろう。

特に貧乏症な私だと、ボスキャリの参加コストと参加企業を天秤にかけてしまうので、コストが安い方が参加への心の障壁は低くなって結果参加できて何かしらの成果を得ることができる(かもしれない)。

 

 

  • 事前の計らい

これは参加を決めた場合の企業へのアプライについて。ボスキャリと言うと

                                                        "3日で内定!"

 というフレーズと共に多くの大学生が夢を見ている気がする。しかし、世の中そんなに甘い話はないもんで、大多数の交換留学生にとって3日だけで満足度の高い結果を得ることはそう簡単では無い様だ。

ボスキャリでは事前に応募し、ES選考、Skypeや電話等の面接を事前に行う事前応募と、当日いきなり履歴書を持ってブースにて応募するウォークインがあるが、やはり事前応募で淡々と準備を進めてきた学生が多くの場合で有利に思えた。

 

そもそもこのウォークインというのが曲者であって、尚且つ特有の面白い文化である。

いきなり会社の説明会を聞いた直後に、使い回しのESピラ一枚を出して、面接が次の日に入り、その日のうちに人事と食事、内定をもらっちゃうなんてことも起こるわけである。

「さっき御社を知りました、志望してます!」

なんて日本では言えたもんじゃないが、これがここではある程度許されるのである。勿論、「何も知らない」じゃ到底面接は通らないが。

意外と大事なのが、事前応募でお祈りされていても、当日のウォークインでは再度応募することができる点だ。志望度が高い企業であればウォークインまでしぶとく行くのは全然アリだ。

しかしこのウォークイン、当日は相当数の学生が足繁くブースを回っており、自分を差別化するのが容易ではないと感じた。志望度が高くなくても数撃ちゃ理論でとにかくウォークインを多くしている学生もいる。特にウォークイン→面接までのステップではスピーディかつ大量に振るい掛けがあるので、志望度が高くても自分より見栄え良い学歴・経歴を持つだけの他の学生に蹴落とされるということはこのスピード感の中では十分に起こる。

やはり、志望する企業であれば必ず事前応募で確実に面接枠をゲットするのが効率的だ。

 

  • ぼっちは避ける

さて、ついに当日がやって来る。ゲットした面接を優先しつつ、興味のある業界、企業が他にあれば練習がてらウォークインしてみると良い。

一つオススメしたいのは、一緒に参加している友人やここで新しくできる知人とよく情報を交換することだ。ボスキャリの選考はどうにもスピーディーで不明瞭な部分も多い、そして実力もそうだが、結構ボスキャリならではのテクニックもあるのを僕は実感した。これらは、同じタイミングで同じ業界に志望している人と共有する中で得るに限る。また、もしかしたら彼らと一緒に内定をもらい将来の同僚にってこともあり得るわけだから。

そして、ボスキャリは結構疲れる。とくに面接、ディナーと続くと丸一日気が抜けない。そこで僕がおすすめしたいのは、ある程度の参加者を集めて夜を飲むなり、飯を食うなりして愚痴をこぼしつつその日の振る舞いを振り返ることだ。

僕は同じ奨学金でアメリカに来ている人ら5人と、Airbnbで家を一軒貸し切った。初めて使ってみたが不便も無かったばかりでなく、夜の時間はかなり楽しかったし、自分の何がダメだったかとか、明日こうした方がいいんじゃない?みたいな話が沢山出てきて良かった。また、ちょっとした同窓会気分も味わえた。

就活だから一人でデスクの広いホテルを取って完璧だ!ってのよりかは、この機会を友人と一緒に楽しめるくらいの気概を持ってた方が3日間をやり切れると感じた。あとは、会場までの地下鉄アクセスはあまり良くない。一番近い地下鉄駅からでも20分位は歩く。トビタテの友人が会場に十分近い地下鉄駅があると教えてくれました。)その点でも、ある程度人数がいればUberというサービスで1台10数ドルでタクシーを呼んで割り勘で会場の真ん前まで行ける。

 

さて、最後に個人的な感想。

僕は卒業が2017/9 or 2018/3の理工系大学院生だ。卒業時期が今回のメインターゲットと違ったということで、日系のメーカーは殆ど受け入れてくれなかった。そのため、数少ない僕の卒業年度を受け入れてくれる企業からの選択だったわけだが、以前から良く知っていて興味もあった外資系のメーカーが2社あったので、かなり早い段階で事前に応募した。手が早かったこともあり、電話越しに面接が一回あった後、面接とディナーの段取りを整えて貰った。

 まだ、就職なんてものを手に取る距離で考えた事は無かったが、3日間(実質2日)だけ就活に没頭する中で、ある程度自分が何をしたいのか良く考えるキッカケになったし、ディナーでそこで働く人達と時間を掛けて色々な話を聞けたことは、参加するに値する経験だったと思う。

とは言うものの参加にかかるコストも安くないし、時期で言うとかなりいい感じにアメリカの大学の試験に被ってくる。そして手放しに参加しても大した対価が得られるとは思わない。けど考え方は人それぞれ。ある程度早く手を打ってコストを安く抑えられたのなら、就活が少し先の学生でも参加を考えてみても良いのかもしれない。 

 

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以下、参考までに僕の泊まった宿。使ったサービス。

www.airbnb.jp

3つのクイーンサイズベットのある家で、6人で泊まって一人1泊50ドルだった。空港からは頑張れば徒歩でも来れる良好なアクセス。冷蔵庫に歓迎のケーキとワインが入ってた!

 

Airbnb。なんと、友達紹介で20$OFF(僕も笑

www.airbnb.jp

 Uberも貼っておく。これも紹介で良いことがある()

https://get.uber.com/invite/p4kqf3q9ue

 

 

Halloween

アメリカでの生活は1ヶ月も経つと語学面ではコミュニケーションにもあまり苦労を強いられることも無くなり生活も肌に馴染んできた。初めの何もかもが新鮮に感じられた時期はとうに過ぎて、同じような日々を過ごす感覚は日本のそれと変わらなくなりつつある。

 

案外こっちでの生活は居心地が良く、ホームシックにもならない。なんならあと数年こっちで暮らしても悪くないと思えてくる程だ。

 

もちろん、飯ならそこらのラーメンまがいの麺類やタイ米を使った料理なんかより武蔵屋だし吉野家の方が格段に安いし旨い。バスの運行も先進国とか言われているくせに未だに30分くらいは平気で遅れてフラストレーションを禁じ得ない。

 

けれども、そんな生活の不便さを差し引いてもこっちでの生活には有り余る良さがある。

 

その良さの一つは、留学という時間の特殊さだと思う。

 

これは海外旅行に行く時に、日本の事はすべて保留にしてパーーッと楽しもう。的な感覚に似ている。

 

僕は来年就活を控えている修士の1年で、再来週には中間発表があって、卒業までには単位を取って、研究もそこそこ成果を出して、就職先も探して…etc 

 

僕は今こんな日本で持っていた社会的な立場をすべて保留にしている。

 

一方アメリカでは、大学院の研究生としての身分はあるものの、良くも悪くも1年しかいなく、学位も取らない留学生に対してはあまり期待はされていない。

 

つまるところ、この1年で僕が果たさなければいけない社会的な責任はほぼ無い。(もちろん自分が立てた目標はあるけども)

 

今まで、所謂エスカレーター式で外から課せられた課題を綺麗にこなすことに粉骨してきた自分にとって、外からの干渉(親からも)がほぼ無く、自分の振る舞いを自分で考える必要がある環境は非常に特殊な時間だと言える。

 

何も大げさに留学してまで語るようなことじゃない。と言われるかもしれないが、意外と日本に居ながらにして自分の人間関係や立場を切り離して行動する事は相当なメンタルを持ってないと出来ないことだし、周りからの理解も得られにくいと思う。

少なくとも、僕には無理だ。

 

もちろん留学の目的自体には成り得ないだろうけども、留学をすることで副作用的にでも自分が一度日本の関係から離れて客観的に考える良い機会が得られる事は確かだ。

 

今週を振り返ると、ハロウィンという言葉に釣られて、新型のiphoneのコスプレを作ってパーティーに参加し、帰りには飲み過ぎた友人(初対面)を深夜に家まで送り届けるなど、考えたとは思えないしょーもない事に時間を割いてしまった感が否めないww

 

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(コスプレは仮装コンテストで優勝したから後悔はしていない!)

 

この先10ヶ月弱の特殊な時間、もう少し大切にしていこうと思う。

 

アメリカの大学院に来てヒシヒシと感じたこと

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(写真: Suzzalo Library at University of Washington)

 

シアトルに来て早1ヶ月、日本の友達がSNSにラーメンの写真を挙げるとダークな気分になる事以外は特に不自由もない。この一ヶ月間色々と思うところがあったけど、大体は薄れていってしまうので備忘録程度にブログなるものを始めてみることにする。

 

きっと現代に生きてたならブログを書いてみたいなっ〜〜と思ったであろう小野妹子の気持ちが今ならよく分かる。 

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(出典: ギャグ漫画日和 小野妹子

 

さて、僕はアメリカのワシントン大学というところでところで半導体の研究をしているわけである。今回はそんな中でアメリカで研究することについて思ったことを書く。

 

キーワードは 

実力主義・競争的 

といったところだろうか。

 

〜 留学初日、 学生室にて〜

 

自分「今日からお世話になります〜、よろしくお願いします!」

上司Dr「よろしくっ!」

自分「よろしくっす!ところで僕のデスクはどこでしょうか!?」

上司D 「残念だが、無い!(Unfortunately, not...)」

 

自分「・・・・・・・」

はっwwwww? 

 

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(引用:ドラマ「ライフ」岩本みどり「お゛め゛ぇ゛の゛席゛ね゛ぇ゛がら゛あ゛!」より)

 

何故なのか。。。

留学早々このことは結構なメンタルダメージだった。

 

だってラボのデスクといえばパソコンでネットブラウジングをしたり、どうでも良い雑談に同期と花を咲かせたり…

と大学院生にとって大事な居場所ではないか。僕は早々に爪弾きにされるようなことをしたというのか。

 

否である。この理由は至ってシンプルであり、最近この学生室を持つ研究グループへの投資が減っており、研究に使えるリソースが減っているのだという。

 

〜翌日の学期始めオリエンテーションにて〜

 

そこでは僕の属するMaterial Science and Engineering(通称:MSE)の学科長かつ指導教官のAlexがMSEについて話をした。その内容はざっくり

 

  • 私たちの学科は素晴らしい!過去何年これだけのリサーチインパクトを放って評価されてきた!獲得した投資は~~万$で、、、、云々
  • 〜〜年には研究インパクトで全米で何位で〜〜。
  • 博士課程の誰々、教授陣の誰々がどの奨学金を獲得している等

 

といったもので、結構な赤裸々話をしつつ学生に帰属意識を促すものだった。

 

こっちでは研究に従事するメインの人材がD課程の学生という事情があるものの、常に世の中の動向と自分の研究がどのように結びついてインパクトを生むのか、その結果として競争資金を持ってこれるかどうか。というアイディアを少なからず持っている様だった。

少なくとも、アイディアに乏しい経験の浅い学生でもあんまり適当なことをやっているとデスクを貰えるか怪しくなる程度の意識はありそうだ。

 

もちろん、こんな話は工学系だからこそ顕著なのかもしれないけども、エンジニアの競争的な一面を早くも見せつけられてしまったという感じだ。

 

また日本人は働きすぎだ!なんてよく耳にするし僕も日本の研究室では極たまに深夜まで実験をしたりと決してワークライフバランスが良いとは言えなかったけども、少なくともこっちの研究室の人も切羽詰まってる人は深夜まで作業をしている人が見受けられた。成果を出すためにちょっとばかり生活の時間を割く文化は国がどうこうというよりも、本人次第なんだなぁ、と。

 

因みに、デスクをもらえなくて意気消沈だった自分だが、ワシントン大学には幸い、朝早くから夜遅くまで開いている図書館があり、僕は主にそこで作業をしている。記事のトップ画がまさにこのSuzzalo図書館の中の様子であり、これが結構な建築だ。

 

ここで勉強してると、なんか自分がめっちゃ出来る奴みたいに思えてくる。(完全に自分に酔っているだけっすねwww)

 

けども、そんな環境に後押しされてこっちでの僕の研究も少しづつ始まってきた。競争心の強いph.Dに囲まれながら学位取得を狙うのはけっこう疲れそうだが、1年だけ留学としてやってみる分には悪い経験じゃないはず、と言い聞かせてこっちで頑張ってみることにする。

 

続く